村木厚子の学歴経歴wikiと家族(夫・娘)!現在の活動やColaboとの関係は?冤罪事件を徹底検証!

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Colaboの不正会計問題が取り沙汰される中、Colaboの関連団体の1つ”若草プロジェクト”の村木厚子さんもColaboの不正会計問題に関わっているのではないかという疑惑が浮上しています。

この記事では村木厚子さんの下記の噂について調べました。

  1. 村木厚子の学歴経歴wikiプロフィール
  2. 村木厚子の家族(夫・娘)
  3. 村木厚子の冤罪事件はなぜ起きたのか?
  4. 村木厚子は本当に冤罪だったのか?
  5. 村木厚子の現在
  6. 村木厚子が若草プロジェクトを始めた理由
  7. 村木厚子(若草プロジェクト)とColaboの関係
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村木厚子の学歴経歴wikiプロフィール

出典:twitter

名前村木 厚子(むらき あつこ) 旧姓:西村(にしむら)
生年月日1955年12月28日 現在67歳
出身地高知県
肩書労働・厚労元官僚
津田塾大学客員教授

村木厚子の生い立ち

幼い頃の村木厚子さんは対人恐怖症(本人談)の読書好きな少女でした。

自由な校風に憧れて土佐中学校・高等学校に進学し、卒業後は高知大学文理学部経済学科に進学しました。

村木厚子さんの父親は社会保険労務士として働いていましたが、村木厚子さんが中学2年生の時に失業してしまいました。

それでも両親から

どんなに苦労しても、学校には通わせるから
地元の大学なら行かせてあげられる

と言われた村木厚子さんはバイトと奨学金でなんとか高校を卒業して、大学にも進学することが出来ました。

村木厚子さんは苦労して大学まで卒業させてくれた両親に恩返しをしたいと思い、働き口を探しましたが、村木厚子さんが大学を卒業した1978年頃の当時、地元の高知では四大卒の女性を採用してくれる会社はありませんでした。

その当時は、女性は高校か短大を卒業後に地元の会社に就職して20代半ばくらいで寿退職するという認識が色濃くあった時代でした。

村木厚子さんに残された選択肢は公務員の道しかなかったため、村木厚子さんは片っ端から公務員試験を受けて、結果、国家公務員上級に合格しました。

しかし、当時は公務員でも女性の採用に積極的な省庁も少なく、村木厚子さんが合格した国家公務員上級職でも、約800人中、女性はわずか20人程度でした。

村木厚子さんは大学卒業後の1987年に労働行政を所管する労働省(後の厚生労働省)に入省しましたが、村木厚子さんが労働省に入省したのは、当時の時代でもほぼ毎年女性を採用するのは労働省くらいしかなかったからだそうです。

それでも、村木厚子さんが採用された年は村木厚子さんを含めて、女性は2人しか採用されなかったとか・・。

それから村木厚子さんの官僚としての長いキャリアがスタートします。

村木厚子の学歴(出身学校)

出身中学校・高校は土佐中学校・高等学校(偏差値:50 ※時期によっては65など、高知県内1位)

村木厚子さんは中高一貫校の土佐中学校・高等学校に進学しました。

土佐中学校・高等学校は中高一貫教育ではありますが、中学から高校への進学は中学3年次に行われる及落審査の後で可否が決まるため、中学入学時に高校進学を保証しているわけではありません。

しかし、例年ほぼ全員が高校への進学が認められており、また高校は毎年50名ほどの外部生徒が入学しています。

土佐高校の偏差値は69で高知県内&私立ともに1位です。

土佐中学校・高等学校は戦前は男子校でしたが、現在は男女共学です。

旧制私立中学校としては珍しく新制高等学校開始後いち早く共学化した学校でもあります。

土佐中学校・高等学校は文武両道を意味する「右文尚武」を標榜とし、吹奏楽部、棋道部、放送部、オーケストラ部、陸上競技部、バドミントン部、登山部、ハンドボール部、自転車競技部、総合科学部が全国大会に出場した実績があります。

また、村木厚子さんが自由な校風に憧れて進学したと言うほど、充実した教育環境の中でも放任主義であり、校則はありますがそこまで厳しく取り締まることはないそうです。

出身大学は高知大学文理学部経済学科

村木厚子さんは1978年3月31日に高知大学文理学部経済学科を卒業しましたが、文理学部は1977年に文理学部分離改組が行われ、人文学部(現:人文社会科学部)と理学部(現:理工学部)に分かれてしまったため、偏差値の確認はできませんでした。

改組後の人文学部と理学部の偏差値は下記の通りです。

  • 人文社会科学部 共テ得点率 57%~75% 偏差値 47.5
  • 理工学部    共テ得点率 52%~64% 偏差値 47.5~50.0

村木厚子さんの出身中学・高校の偏差値から、もっと上位の大学も狙えたと思われますが、家庭事情で妥協して決めたのが高知大学文理学部経済学科だったようです。

村木厚子の経歴

年 月履 歴
1978年4月1日労働省入省
1997年7月1日労働省職業安定局高齢・障害者対策部障害者雇用対策課長
1999年7月5日労働省女性局女性政策課長
2001年1月6日厚生労働省雇用均等・児童家庭局雇用均等政策課長
2002年8月30日厚生労働省社会・援護局福祉基盤課長
2003年8月29日厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課長
2005年10月1日厚生労働省大臣官房政策評価審議官(併)社会・援護局障害保健福祉部
2008年7月11日厚生労働省雇用均等・児童家庭局長
2009年6月16日厚生労働省大臣官房付 ※間もなくして起訴休職の分限処分を受ける
2009年7月4日虚偽公文書作成等の罪及び偽造公文書行使等の罪で大阪地方検察庁に起訴され、被告人となる
2010年9月21日大阪地方検察庁が上訴権を放棄したため、無罪が確定
※後に本件を理由に国家賠償請求訴訟を提訴し、国側は約3770万円の損害賠償の認諾を表明
2010年9月22日厚生労働省大臣官房付
2010年9月27日内閣府政策統括官(共生社会政策担当)(併)自殺対策推進室長(併)内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)
2010年10月21日内閣府政策統括官(共生社会政策担当)(併)自殺対策推進室長(併)待機児童ゼロ特命チーム事務局長(併)内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)
2012年2月7日内閣府より訓戒処分
(※郵便料金不正事件で、有印公文書偽造・同行使罪などに問われた上村勉・元厚生労働省係長(42)の有罪判決確定を受け、内閣府は7日、管理監督責任として上司だった元厚労省局長で村木厚子・内閣府政策統括官(56)を訓告の処分)
2012年9月10日厚生労働省社会・援護局長
2013年7月2日厚生労働事務次官
2014年4月1日大阪大学男女協働推進センター招へい教授
2014年6月18日厚生労働省より訓戒処分
(※田村憲久厚生労働相は18日、今国会に提出した法案の条文や資料にミスがあった問題で、村木厚子事務次官ら事務方6人を訓告処分にしたと発表)
2015年10月1日厚生労働省退官

村木厚子さんは公務員になって、最初は末席でお茶汲みと雑巾がけの仕事をする1年で、仕事が終わるのは午前2時くらいでした。

2年目には地方に出て見習いとして働き、3年目に本省に戻ってまた深夜まで残業する毎日でしたが、村木厚子さんは元気に働く若い子だったため、職場で可愛がられていたそうです。

25歳の頃には外務省に出向し、国連でチーム体制で動きながら会議終了後にプレスリリースをかき集めて、辞書を引きながら毎日、日本宛てに電報で報告するという仕事をしていました。

慣れない仕事に振り回されながらも、必死に働くうちに国連での日本の立場を知り、これまでやってきた自分の仕事が何か、何のためにここにいるのかがやっと分かってきた、と村木厚子さんは言っていました。

この経験があれば日本に戻っても、何も怖いものはないとも思えたとか。

因みに村木厚子さんはこの頃に結婚したのですが、新婚早々、交通事故に遭ったことで、夫が家事をすることになったそうです。

そしてそのことがきっかけで村木厚子さんの家庭は当時にしては珍しく、家事・育児を分担する家庭となり、夫・村木太郎さんは後に「(家事・育児分担になったのは交通事故)あれが敗因だった」とも言っていました。

当時は共働きの世帯も少なく、家事は妻主体で夫は一切しないという家庭が多い中、村木厚子さんの家庭は、夫が家事・育児を分担してくれたおかげで、村木厚子さんは順調にキャリアを積むことが出来ました。

また、当時は子育てする女性が官僚として出世するのは難しい時代でもあったのですが、幸い村木厚子さんが勤めていた労働省には“働くお母さんの先駆者”がおり、彼女たちが村木厚子さんを応援してくれたため、村木厚子さんは順調に出世することが出来たと言います。

村木厚子の家族(夫・娘)

外務省に出向して国連で働いていた村木厚子さんは、26歳の頃に日本に戻ってきました。

ちょうどその頃に同期だった村木太郎さんと結婚しました。

村木厚子の夫は村木太郎

村木太郎さんは元労働・厚生労働官僚で、2013年に退職した後はいくつかの団体の役職に就き、障害者や若い女性の支援などを行っています。

  • 全国シルバー人材センター事業協会 専務理事
  • 大正大学地域構想研究所 教授
  • ダイバーシティ就労研究プラットフォーム企画委員会 委員・理事
  • 南高愛隣会 理事
  • 若草プロジェクト 理事
  • ストローク会 理事長
  • 就労継続支援A型事業所全国協議会 顧問

村木厚子の娘

村木厚子さんは29歳で長女、35歳で次女を出産しました。

出典:産経新聞

現在は長女39歳、次女は33歳前後です。

娘たちは官僚とかではなさそうで、これ以上の情報は見つかりませんでした。

ただ、既に孫も生まれているそうで、結婚して一般人として暮らしているようです。

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