村木厚子の学歴経歴wikiと家族(夫・娘)!現在の活動やColaboとの関係は?冤罪事件を徹底検証!

有名人・著名人

Colaboの不正会計問題が取り沙汰される中、Colaboの関連団体の1つ”若草プロジェクト”の村木厚子さんもColaboの不正会計問題に関わっているのではないかという疑惑が浮上しています。

この記事では村木厚子さんの下記の噂について調べました。

  1. 村木厚子の学歴経歴wikiプロフィール
  2. 村木厚子の家族(夫・娘)
  3. 村木厚子の冤罪事件はなぜ起きたのか?
  4. 村木厚子の現在
  5. 村木厚子が若草プロジェクトを始めた理由
  6. 村木厚子(若草プロジェクト)とColaboの関係
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村木厚子の学歴経歴wikiプロフィール

出典:twitter

名前村木 厚子(むらき あつこ) 旧姓:西村(にしむら)
生年月日1955年12月28日 現在67歳
出身地高知県
肩書労働・厚労元官僚
津田塾大学客員教授

村木厚子の生い立ち

幼い頃の村木厚子さんは対人恐怖症(本人談)の読書好きな少女でした。

自由な校風に憧れて土佐中学校・高等学校に進学し、卒業後は高知大学文理学部経済学科に進学しました。

村木厚子さんの父親は社会保険労務士として働いていましたが、村木厚子さんが中学2年生の時に失業してしまいました。

それでも両親から

どんなに苦労しても、学校には通わせるから
地元の大学なら行かせてあげられる

と言われた村木厚子さんはバイトと奨学金でなんとか高校を卒業して、大学にも進学することが出来ました。

村木厚子さんは苦労して大学まで卒業させてくれた両親に恩返しをしたいと思い、働き口を探しましたが、村木厚子さんが大学を卒業した1978年頃の当時、地元の高知では四大卒の女性を採用してくれる会社はありませんでした。

その当時は、女性は高校か短大を卒業後に地元の会社に就職して20代半ばくらいで寿退職するという認識が色濃くあった時代でした。

村木厚子さんに残された選択肢は公務員の道しかなかったため、村木厚子さんは片っ端から公務員試験を受けて、結果、国家公務員上級に合格しました。

しかし、当時は公務員でも女性の採用に積極的な省庁も少なく、村木厚子さんが合格した国家公務員上級職でも、約800人中、女性はわずか20人程度でした。

村木厚子さんは大学卒業後の1987年に労働行政を所管する労働省(後の厚生労働省)に入省しましたが、村木厚子さんが労働省に入省したのは、当時の時代でもほぼ毎年女性を採用するのは労働省くらいしかなかったからだそうです。

それでも、村木厚子さんが採用された年は村木厚子さんを含めて、女性は2人しか採用されなかったとか・・。

それから村木厚子さんの官僚としての長いキャリアがスタートします。

村木厚子の学歴(出身学校)

出身中学校・高校は土佐中学校・高等学校(偏差値:50 ※時期によっては65など、高知県内1位)

村木厚子さんは中高一貫校の土佐中学校・高等学校に進学しました。

土佐中学校・高等学校は中高一貫教育ではありますが、中学から高校への進学は中学3年次に行われる及落審査の後で可否が決まるため、中学入学時に高校進学を保証しているわけではありません。

しかし、例年ほぼ全員が高校への進学が認められており、また高校は毎年50名ほどの外部生徒が入学しています。

土佐高校の偏差値は69で高知県内&私立ともに1位です。

土佐中学校・高等学校は戦前は男子校でしたが、現在は男女共学です。

旧制私立中学校としては珍しく新制高等学校開始後いち早く共学化した学校でもあります。

土佐中学校・高等学校は文武両道を意味する「右文尚武」を標榜とし、吹奏楽部、棋道部、放送部、オーケストラ部、陸上競技部、バドミントン部、登山部、ハンドボール部、自転車競技部、総合科学部が全国大会に出場した実績があります。

また、村木厚子さんが自由な校風に憧れて進学したと言うほど、充実した教育環境の中でも放任主義であり、校則はありますがそこまで厳しく取り締まることはないそうです。

出身大学は高知大学文理学部経済学科

村木厚子さんは1978年3月31日に高知大学文理学部経済学科を卒業しましたが、文理学部は1977年に文理学部分離改組が行われ、人文学部(現:人文社会科学部)と理学部(現:理工学部)に分かれてしまったため、偏差値の確認はできませんでした。

改組後の人文学部と理学部の偏差値は下記の通りです。

  • 人文社会科学部 共テ得点率 57%~75% 偏差値 47.5
  • 理工学部    共テ得点率 52%~64% 偏差値 47.5~50.0

村木厚子さんの出身中学・高校の偏差値から、もっと上位の大学も狙えたと思われますが、家庭事情で妥協して決めたのが高知大学文理学部経済学科だったようです。

村木厚子の経歴

年 月履 歴
1978年4月1日労働省入省
1997年7月1日労働省職業安定局高齢・障害者対策部障害者雇用対策課長
1999年7月5日労働省女性局女性政策課長
2001年1月6日厚生労働省雇用均等・児童家庭局雇用均等政策課長
2002年8月30日厚生労働省社会・援護局福祉基盤課長
2003年8月29日厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部企画課長
2005年10月1日厚生労働省大臣官房政策評価審議官(併)社会・援護局障害保健福祉部
2008年7月11日厚生労働省雇用均等・児童家庭局長
2009年6月16日厚生労働省大臣官房付 ※間もなくして起訴休職の分限処分を受ける
2009年7月4日虚偽公文書作成等の罪及び偽造公文書行使等の罪で大阪地方検察庁に起訴され、被告人となる
2010年9月21日大阪地方検察庁が上訴権を放棄したため、無罪が確定
※後に本件を理由に国家賠償請求訴訟を提訴し、国側は約3770万円の損害賠償の認諾を表明
2010年9月22日厚生労働省大臣官房付
2010年9月27日内閣府政策統括官(共生社会政策担当)(併)自殺対策推進室長(併)内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)
2010年10月21日内閣府政策統括官(共生社会政策担当)(併)自殺対策推進室長(併)待機児童ゼロ特命チーム事務局長(併)内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)
2012年2月7日内閣府より訓戒処分
(※郵便料金不正事件で、有印公文書偽造・同行使罪などに問われた上村勉・元厚生労働省係長(42)の有罪判決確定を受け、内閣府は7日、管理監督責任として上司だった元厚労省局長で村木厚子・内閣府政策統括官(56)を訓告の処分)
2012年9月10日厚生労働省社会・援護局長
2013年7月2日厚生労働事務次官
2014年4月1日大阪大学男女協働推進センター招へい教授
2014年6月18日厚生労働省より訓戒処分
(※田村憲久厚生労働相は18日、今国会に提出した法案の条文や資料にミスがあった問題で、村木厚子事務次官ら事務方6人を訓告処分にしたと発表)
2015年10月1日厚生労働省退官

村木厚子さんは公務員になって、最初は末席でお茶汲みと雑巾がけの仕事をする1年で、仕事が終わるのは午前2時くらいでした。

2年目には地方に出て見習いとして働き、3年目に本省に戻ってまた深夜まで残業する毎日でしたが、村木厚子さんは元気に働く若い子だったため、職場で可愛がられていたそうです。

25歳の頃には外務省に出向し、国連でチーム体制で動きながら会議終了後にプレスリリースをかき集めて、辞書を引きながら毎日、日本宛てに電報で報告するという仕事をしていました。

慣れない仕事に振り回されながらも、必死に働くうちに国連での日本の立場を知り、これまでやってきた自分の仕事が何か、何のためにここにいるのかがやっと分かってきた、と村木厚子さんは言っていました。

この経験があれば日本に戻っても、何も怖いものはないとも思えたとか。

因みに村木厚子さんはこの頃に結婚したのですが、新婚早々、交通事故に遭ったことで、夫が家事をすることになったそうです。

そしてそのことがきっかけで村木厚子さんの家庭は当時にしては珍しく、家事・育児を分担する家庭となり、夫・村木太郎さんは後に「(家事・育児分担になったのは交通事故)あれが敗因だった」とも言っていました。

当時は共働きの世帯も少なく、家事は妻主体で夫は一切しないという家庭が多い中、村木厚子さんの家庭は、夫が家事・育児を分担してくれたおかげで、村木厚子さんは順調にキャリアを積むことが出来ました。

また、当時は子育てする女性が官僚として出世するのは難しい時代でもあったのですが、幸い村木厚子さんが勤めていた労働省には“働くお母さんの先駆者”がおり、彼女たちが村木厚子さんを応援してくれたため、村木厚子さんは順調に出世することが出来たと言います。

村木厚子の家族(夫・娘)

外務省に出向して国連で働いていた村木厚子さんは、26歳の頃に日本に戻ってきました。

ちょうどその頃に同期だった村木太郎さんと結婚しました。

村木厚子の夫は村木太郎

村木太郎さんは元労働・厚生労働官僚で、2013年に退職した後はいくつかの団体の役職に就き、障害者や若い女性の支援などを行っています。

  • 全国シルバー人材センター事業協会 専務理事
  • 大正大学地域構想研究所 教授
  • ダイバーシティ就労研究プラットフォーム企画委員会 委員・理事
  • 南高愛隣会 理事
  • 若草プロジェクト 理事
  • ストローク会 理事長
  • 就労継続支援A型事業所全国協議会 顧問

村木厚子の娘

村木厚子さんは29歳で長女、35歳で次女を出産しました。

出典:産経新聞

現在は長女39歳、次女は33歳前後です。

娘たちは官僚とかではなさそうで、これ以上の情報は見つかりませんでした。

ただ、既に孫も生まれているそうで、結婚して一般人として暮らしているようです。

村木厚子の冤罪事件の概要

上述の村木厚子さんのキャリア表のうち、2009年6月14日~2010年9月21日の約1年3ヶ月、村木厚子さんのキャリアは空白になっています。

何故ならこの時期、村木厚子さんは虚偽公文書作成及び行使の容疑で警察に逮捕され、被告人になっていたからです。

2009年6月14日、村木厚子さんは虚偽公文書作成及び行使の容疑で逮捕され、大阪拘置所に勾留されました。

翌月7月4日、虚偽公文書作成等の罪及び偽造公文書行使等の罪で大阪地方検察庁に起訴され、被告人になったため、2010年9月21日まで村木厚子さんは無罪を主張して法廷で検察と争いました。

村木厚子さんが法廷で争う間、村木厚子さんを支援する団体が結成され、結果、2010年9月10日に大阪地方裁判所が、懲役1年6月の求刑に対して無罪判決を下しました。

この判決から、村木厚子さんの事件は冤罪事件として世間に知られるようになったのですが・・

そもそも冤罪事件はなぜ起きたのでしょうか?

村木厚子の冤罪事件はなぜ起きたのか?

村木厚子さんの冤罪事件は2009年に大阪地方検察庁特別捜査部が一斉摘発した障害者郵便制度悪用事件の捜査過程において不正があったことが原因で発生しました。

村木厚子さんは社会・援護局障害保健福祉部 企画課長時代に、自称障害者団体「凛(りん)の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、ダイレクトメールの郵便料金を不正に安く発送させたとして、虚偽公文書作成・同行使の容疑で逮捕されました。

しかし、村木厚子さんの無罪が確定判決になった日、朝日新聞は本事件の捜査を担当した検察官(前田恒彦氏)が証拠改ざんを行っていたことを朝刊でスクープし、同日夜、担当検察官(前田恒彦氏)が証拠隠滅の容疑で検察官に逮捕されるという極めて異例の事態となりました。

最終的に証拠改ざんに関わった3人の検察官が逮捕され、村木厚子さんの部下だった元厚生労働省障害保健福祉部企画課係長・上村勉氏が全ての責任を問われ、懲役1年執行猶予3年の有罪判決を下されました。

ここまでが村木厚子さんが逮捕されて無罪になるまでの簡単な流れになります。

事件当初、村木厚子さんにも疑惑が掛かった理由は

  • 本件は厚生労働省が虚偽の内容に基づいて公文書を発行したことに起因する事件
  • 捜査段階で、証明書発行に直接関与した上村勉が上司の村木厚子の指示で証明書を作成したと供述

上記が重要証拠として採用されたからでした。

しかし、公判で上村勉氏が村木厚子さんの指示ではなく単独で行ったと供述を翻したことと、検察側が上村勉氏の証言以外で村木厚子さんが共犯であるという有力な証拠を押さえられなかったことから、2010年9月10日に大阪地方裁判所から無罪の判決が下されました。

さらに2010年9月21日、大阪地方検察庁が上訴権を放棄し、村木厚子さんの無罪が確定したのと同時に朝日新聞が「大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件」を大々的に報じたことで、村木厚子さんは冤罪だったことが決定的となりました。

村木厚子は本当に冤罪だったのか?

村木厚子さんが本当に冤罪だったかの結論は後述する『【結論】村木厚子は本当に冤罪だったのか?』にて詳細を記述していますが、先に結論だけ抜粋します。

後述する諸々の状況を検証した上で言えることは

少なくとも障害者郵便制度悪用事件における障害者団体証明公文書を発行した虚偽有印公文書作成事件において、村木厚子は関与していない可能性が極めて高いため冤罪事件

と結論付けました。

疑惑①上村勉の単独犯説にするには無理のある状況証拠

本件は検察側の証拠改ざんによる村木厚子さんの冤罪事件だったと世間では認識されていますが、一部では本当に冤罪だったのかと疑問視する声も上がっています。

本件は複数の企業・団体に行政機関まで絡み、約100億円単位の不正減免が発生した稀に見る大規模な不正事件でした。
不正事件に関係した組織・人物
  • 障害者団体
  • 厚生労働省
  • ダイレクトメール印刷
  • 通販大手「ウイルコ」
  • 広告代理店「新生企業」「博報堂エルグ」
  • 大手家電量販店「ベスト電器」
  • 日本郵便支店長 など

これだけの組織と規模で行われた不正行為が、果たしてたった1人の厚生労働省職員の判断と責任だけで実行できるものなのでしょうか・・?

2004年に上村勉氏が証明書を発行した際、実は上村勉氏は部署に異動してきたばかりの頃でした。

上村勉氏は証明書を発行するに至った経緯をこのように述べています。

  • 元々上村勉の前任者が証明書発行依頼を受けていた
  • 前任者は何故かすぐに発行せず、また上村勉にも十分な引継ぎをしなかった
  • 引き継いだばかりの上村勉に、凛の会元会長・倉沢邦夫はしつこく発行を催促し、また前任者の対応について不満も言っていたため、上村勉は自分が対応しないとまずいと判断し、十分な調査をせずに証明書を発行
  • まさか障害者団体が悪いことをするとは思っていなかったとのこと

しかし、上村勉氏の行動にはいくつか不審な点がありました。

例えば、上村勉氏は証明書を渡す際、厚生労働省内ではなく隣接の虎ノ門のビルの喫茶店で手渡しています。

また証明書を作成時に上村勉氏は上司の村木厚子さんの承認を得ず、無断で公印を使用しています

この件で村木厚子さんは、復職後の2012年2月に部下の有罪確定を受けて管理監督責任として訓告処分を受けました。

つまり、上村勉氏は自分が対応しないとまずいと思いながら対応したものの、実態を十分に調査せず、また上司である村木厚子さんにも相談していなかったということになります。

異動してきたばかりのキャリアでもない上村勉氏が何故そのような無茶な判断を下したのでしょうか?

疑惑②上村勉は厚生労働省上層部から指示されて証明書を発行した?

いくつかの状況から以下のことが考えられます。

  • 前任者が証明書発行を渋りながらも申請を退けられなかったのは、”厚生労働省上層部”からの圧力があったから?
  • 上村勉も事情は把握していたものの、倉沢邦夫からしつこく催促され、また”厚生労働省上層部”からの圧力もあって、致し方なく証明書発行に踏み切った可能性
  • 虎ノ門のビルの喫茶店で証明書を手渡したのは、自身が作成した証明書が本来なら発行されてはいけないものと認識していたから?

上村勉氏は後に特別インタビューで、本件は検察によるでっち上げ冤罪事件で、検察の本当の狙いは村木厚子さんと石井一議員(民主党)だったことに後から気づいたと話していました。

対談の一部を引用します。

上村 「逮捕から数日して、村木さんの名前が出てきました。僕は単なる駒で、本当のターゲットは村木さんや石井議員なんだな、と分かってきて、事件が実際よりはるかに大きなものになって、自分に迫ってきました。でも、どうしてこんな大ごとになっているのか、自分ではさっぱり分からない。」

江川 「そもそも上司からの指示があるなら、こっそり証明書を作る必要もなかったわけですよね。」

上村 「そうです。課長(注:村木氏のこと)が了解している話なら、僕だって自分でやらないで、部下に任せますよ。けれども部下の係員が二人とも異動したばかりで、彼らに任せるのは酷かなと思って自分で抱え込んでしまったのです。僕が自分で証明書を作ったのは、前任者からの引き継ぎもないし、凛の会(注:偽の障害者団体)側の態度からして、前任の対応に不満があるようだったので、僕がやらないとまずいなと思ったからなんです。ただ予算の仕事もあって先送りしているうちに、催促もあり・・・・。障害者団体がまさか悪いことをするとは思っていなかったし、障定協(注:障害者団体定期刊行物協会)から「営利目的には使わないという念書を取ってあるので、証明書を出してください」という紙も来ていたので、課長が出すのも、僕が作って出すのも同じだろう、少しでも負担を減らせるならば、障害者のためになるだろうと、安易な気持ちになって、作ってしまった。それが真相です。」

江川 「ですから、書類は一応整っていたんですよね。なのに、決裁などの手間を惜しんで、必要な手続きを省略してしまったという、単純な事件です。」

出典:個人ブログ

上記は村木厚子さんの著書『私は負けない「郵便不正事件」はこうして作られた』に掲載されたインタビュー内容を一部引用したものです。

上村勉氏はインタビューでも村木厚子さんの関与を否定し、冤罪の責任は全て検察にあるかのように主張しています。

しかし、上村勉氏のインタビュー内容から、さらにもう1つの可能性も推測できます。

  • 上村勉はインタビューで書類が全て整っていたにもかかわらず、何故か前任者はすぐに発行しないまま引継ぎもなく、後任の上村勉はその状況で”何故か村木厚子(上司)に相談もせず”無断で証明書を発行したという不思議な話をしている
  • 実は村木厚子ではない”厚生労働省上層部”から圧力があり、証明書を発行せざるを得なかった?
  • 上村勉は対象団体への証明書発行が不正なものになることを把握していたが、上記の理由から発行せざるを得ず、さらに本件に村木厚子は関係者ではなかったため、相談することもできないまま無断で公印を使用
  • 不正な証明書だったため、虎ノ門のビルの喫茶店で待ち合わせして手渡した?
  • ”厚生労働省上層部”から村木厚子の指示だったと供述するように言われたが、後に何らかの理由で方針が変わり、それに従った上村勉は供述を翻した?

これはあくまで可能性の1つとして推測したものに過ぎません。

しかし、上村勉氏自身も言っているように何のメリットもなくリスクしかないのに、誰にも相談せず軽はずみで偽の証明書を発行するのは不自然極まりない行動です。

それよりも、ネット上で噂されているようにノンキャリア・上村勉氏の一連の行動は(村木厚子さん以外の)上司からの指示に従ったものと考える方が、よほど説得力があります。

調書作成の段階で村木厚子さんの指示と供述しておきながら、公判で否定した理由が単なる上村勉氏個人の罪悪感によるものなのか、誰かからの指示によるものなのか、断定は難しいですが・・。

村木厚子さんが逮捕された直後、村木厚子さんを応援する有名人・著名人らによって村木厚子さんの無罪を主張する支援団体が結成されました。

支援団体のメンバーにはフェミニスト活動家も多数含まれていたとのことです。

そして、その後に開かれた上村勉氏の公判において、上村勉氏は供述内容を翻し、検察は一気に不利な状況に追い込まれました。

村木厚子冤罪事件のシナリオ(仮説)

ここまでの状況を踏まえて、1つのストーリーを組み立ててみました。

  1. 厚生労働省内では常に利権が絡む権力・派閥争いがある
  2. 証明書発行依頼を実質仲介していたのは、事件当時、村木厚子の上司だった塩田幸雄元部長という噂
  3. 塩田幸雄は政治家からの依頼を受ける窓口の役割だった?
  4. つまり上村勉は、村木厚子の上司である塩田幸雄からの指示があったから、村木厚子に相談せず、偽の証明書作成に踏み切った可能性が高く、そう考えれば村木厚子に相談しなかったことも全く不自然ではない
  5. 証明書発行が大事になったため塩田幸雄を含む厚生労働省は、本件に無関係だった村木厚子に全ての責任を擦り付けることで、厚生労働省ぐるみの不正事件ではないことを装う計画だった?
  6. 村木厚子に全ての責任を負わせようとしたのは、女性官僚で塩田幸雄が所属していた派閥とは関係のない人材だったから?
  7. 実行犯の上村勉ではなく上司の村木厚子に責任を擦り付けようとしたのは、上村勉がノンキャリアで証明書発行において権限がなく、上村勉の単独犯と主張するには無理がある事件規模だったため
  8. いざ村木厚子が逮捕されると村木厚子の支援団体が発足し、その関係者の中には厚生労働省または政治家に影響力のある人物も含まれていた?
  9. あるインタビューで、村木厚子は厚生労働省内で同じ女性官僚の先輩たちが、自身の出世のために上の人たちに睨みを利かせてくれ、助けてくれたと話していた → つまり村木厚子の支援団体には同じ厚生労働省内のこういう人たち(同じ派閥?)も関わっていた可能性もある
  10. 村木厚子の支援団体と厚生労働省内で村木厚子側の上層部の人たちが動いた結果、厚生労働省は、村木厚子ではなく上村勉単独犯による犯行(スケープゴート)にする方針にシフトせざるを得なくなった
  11. 方針が変わったのは上村勉の調書が作成され、公判が開かれるまでの間

以下、上記の仮説への補足です。

  • 塩田幸雄に偽の証明書の件で口利きを依頼した政治家は石井一議員(民主党)と対立する側の政治家である可能性があるという噂
    →だから事件が大事になった時、村木厚子だけでなく石井一議員もスケープゴート対象になっていた?
    →しかし、石井一議員は本件には無関係であることが裁判で証明されてしまい、上村勉も供述を翻したことで当初の検察の予定は完全に狂ってしまう
  • このことから一部では本件を口利きしたのは、自民党の政治家ではないかという噂も有り
  • 検察が証拠改ざんまでして村木厚子と石井一議員を逮捕しようとしたのは、”塩田幸雄に口利きを依頼した政治家”から逮捕された検察官に依頼もしくは偽のタレコミがあったから?
  • 村木厚子と石井一議員を逮捕するよう仕向けたのは事件発生当時の内閣総理大臣・小泉純一郎の秘書・飯島勲からの差し金だったと証拠改ざんした検察が証言
    →このことから、塩田幸雄に証明書の件を口利きしたのは飯島勲だった?という噂が浮上
  • 村木厚子の元上司・塩田幸雄は本件において処罰なし
  • 村木厚子の無罪判決と検察の証拠改ざん事件が同時に告知される

出典:NHK政治マガジン 飯島勲

本件は約20年前の事件で、当時も黒幕について怪しむ声がネット上で上がっていたようですが、今ほど個人の発言力が大きくなかった時代だったこともあり、本件の真相は大手ニュースで報じられたように

  • 村木厚子逮捕は検察の証拠改ざんによる冤罪事件だった
  • 全ては実行犯の上村勉が1人で行ったことだが、金銭目的ではなくいい加減な仕事をした結果で、ただのミスだった
  • 最初、村木厚子からの指示と供述したのは、拘置所から早く解放されたくて適当についた嘘だったが、公判では本当のことを話した

とされていました。

当時もそうでしたが、今でもこの事件の真相を報道通りに信じていない人は相当数います。

それだけ報道で語られる真相が、事件の全貌と心象的にも状況的にもかけ離れていると感じた人が多かったからではないでしょうか。

判決によると、傷害保健福祉部企画課の係長だった上村被告は2004年、実体のない団体と認める村木局長(当時企画課長)の公印入りの証明書を偽造した。検察側が主張した団体元会員らとの共謀については、上村被告の「単独犯」との供述は信用できると判断し、認めなかった》

裁判所の、団体元会員らとの共謀については認めなかったについては、直接の共謀ではなく、上村被告や村木元課長の上司であった塩田幸雄元部長との共謀であったが正しいのである。要は村木元課長ではなく、元部長の塩田幸雄と共謀していたということだ。

事件の真相を本紙の平成22年10月号に見る。
《…要するに大阪地検特捜部は、ボタンを掛け違えて、倉沢邦夫氏が石井一代議士の私設秘書であったことをいいことに、石井一のルートに事件の構図を押し込んだということだ。

それでは、事実はどうであったのか。詳細を除けばこうなる。倉沢邦夫→木村義雄→塩田幸雄→上村勉》

検察の信頼回復に期待する。

出典:四国タイムズ

出典:瀬戸内しまラジ! 塩田幸雄町長の離任式

【結論】村木厚子は本当に冤罪だったのか?

ともあれ、村木厚子さんは本当に冤罪だったのか?に対する結論を述べます。

少なくとも障害者郵便制度悪用事件における障害者団体証明公文書を発行した虚偽有印公文書作成事件において、村木厚子は関与していない可能性が極めて高いため冤罪事件

と理解して良いように思えます。

ただ・・村木厚子さんが本当に何も知らなかったかと言えば不明とも言えます。

理由は、本件は村木厚子さんの上司だった塩田幸雄氏が窓口だった可能性が高く、そのことを厚生労働省内で把握していた者も少なからずいたのではないかと思われるからです。

村木厚子さんが塩田幸雄氏から何も聞かされていなかったのなら本件について全く知らなかった可能性も高いのですが・・

村木厚子さんも長年、厚生労働省に身を置く立場として、厚生労働省内の権力・派閥争いに全く巻き込まれていなかったとはちょっと考えにくいんですよね・・。

ただの憶測になりますが、仮に部下の上村勉氏が偽の証明書を発行するよう指示されていることを何らかのきっかけで知っていたとしても、上層部の意を汲んで知らないふりをしていた可能性だって十分にあり得ます。

しかし、こればかりは村木厚子さんとその周辺人物にしか立証できない憶測にすぎないので・・

少なくとも村木厚子さんは指示はしていない、というのが一番無難な説明になりそうです。

村木厚子の現在

前述の冤罪事件以降、村木厚子さんは再び官僚に戻りました。

2010年9月22日に厚生労働省大臣官房付となり、その後も順調に出世し、2015年10月1日に退官しました。

退官後、2016年4月に一般社団法人若草プロジェクトを立ち上げ、様々なポジションに就き、多岐にわたって活動しています。

年 月履 歴(退官後)
2016年4月一般社団法人若草プロジェクト立上げ
2016年6月1日コニカミノルタ株式会社 アドバイザー、学校法人大妻学院 理事
2016年6月10日一般社団法人障害者雇用企業支援協会 顧問、公益財団法人三菱UFJ信託芸術文化財団 評議員
2016年6月24日伊藤忠商事 社外取締役、公益財団法人産業雇用安定センター 評議員
※伊藤忠商事社外取締役は2023年6月定時株主総会日付で取締役ではなくなる
2016年7月1日公益社団法人日本フィランソロピー協会 理事
2017年4月1日土佐中学校・高等学校 理事、津田塾大学総合政策学部 客員教授
2017年6月26日SOMPOホールディングス株式会社 監査役
2018年6月住友化学株式会社 取締役
2019年6月SOMPOホールディングス株式会社 取締役
2021年6月1日内閣官房孤独・孤立対策担当室政策参与
NPO法人抱樸希望のまちプロジェクト 顧問

村木厚子が若草プロジェクトを始めた理由

村木厚子さんが退官した後に真っ先に取り掛かったのは若草プロジェクトの立ち上げでした。

若草プロジェクトは困難を抱える女性を支援する目的で設立されました。

昨今の不安定な社会情勢の中、貧困・虐待・DV・性的搾取・育児ノイローゼ・いじめ・薬物依存などに、多くの女性が苦しんでいます。
中でも若年女性については、これまで法律・制度の狭間で置き去りにされがちでした。
彼女たちの生きづらさや抱える問題に対しては、多くの偏見・誤解があります。

また彼女たちの姿は表に見えづらいことから、十分な支援が届いていません。
「誰一人取り残さない」ためにも、今こそ、若年女性の問題に向き合うことが必要です。
彼女たちに支援を届けるために、私たちは「つなぐ」「まなぶ」「ひろめる」活動を行っています。

出典:若草プロジェクト

村木厚子さんは前述の冤罪事件で拘置所にいた時、刑務作業をしている女性たちを見て色々思うところがあったそうです。

そして村木厚子さんが冤罪で逮捕された時、女性である自分を支援してくれる団体が立ち上がったことで裁判を乗り切れたのも若草プロジェクトを立ち上げる動機の一つになったのかもしれません。

逮捕から無罪判決を得て厚生労働省に復職するまで1年3カ月。プロや家族や友人の支えが大事だと自覚しました。さらに、ここで裁判を頑張り切れないと、娘が将来何かあったときに「お母さんも頑張り切れなかったから、私もやっぱり頑張れない」と考えたら大変だと、気づいた瞬間がありました。すると、私は絶対に大丈夫だと思えたんです。不思議ですね。自分の中に支える部分、支えられる部分のどちらもある。誰かのために何かができるというのはものすごく大事なのですね。

拘置所で気づいたことがまだあります。女性の受刑者さんたちが刑務作業で食事を運んでくれる。みんな可愛い。みんな一生懸命に仕事している。何でこんなに良い子たちが刑務所にいるのかと、検事に聞きました。薬物と売春。その罪名と彼女たちの姿がどうしてもつながらない。あとで勉強すると、非常に厳しい家庭事情や性暴力などつらい状況下での薬への依存や、1人で生きていくための売春といったことがあるのだと知りました。刑務所に行った人たちは怖い人や悪い人たちだと、勝手に壁をつくっていた。でもそうじゃありませんでした。

その後、生活困窮者を支援する仕事を担当しました。困っている人々には共通点が二つありました。一つは、複数の困難が重なっている。もう一つは、社会とのつながりが切れている。

出典:朝日新聞

拘置所で刑務作業をしている女性を見たとき、驚きました。若い人がたくさんいて、みんな真面目に働いていました。なぜこんな人たちがここにいるのだろう?そう思って調べると、元々障害などのハンディキャップがあったり、親さえ頼れず一人で頑張る中で風俗やクスリに引きずり込まれてしまったりなど、生きづらさを抱える女性が多いという事実に直面しました。
生きづらさを抱える女性が犯罪に巻き込まれる、死を選ぶ、そうなる前にできることはないか?このような思いから、「若草プロジェクト」を立ち上げました。大谷恭子さんと寂庵を訪れ、寂聴さんに代表呼びかけ人になってほしいとお願いをした日が懐かしく思い出されます。

出典:若草プロジェクト

村木厚子さんが長年、身を置いていた官僚社会は基本的に男性中心の社会です。

現在は女性官僚もずいぶん増えたので、村木厚子さんが官僚だった頃に比べたら女性待遇や立場もかなり改善されていると思われますが、村木厚子さんが現職だった時代はまだ働く女性官僚の黎明期とも言える時代でした。

村木厚子さんはそういう難しい立ち位置の中、権力・派閥争いに巻き込まれながらも働く女性官僚の先駆者の1人として活躍していたわけですが・・

そういう経験をした自分だからこそ、社会的に弱い立場にいる女性たちを助けられるのは自分しかいないと考えたのかもしれません。

その決定的な動機となったのはやはり冤罪事件で逮捕されたことでしょうか・・。

また、村木厚子さんは優秀な官僚だったため、理想とする社会のシステムを構築するには何が必要かを誰よりも熟知しているように思えます。

  • 多岐にわたる人脈
  • 潤沢な資金

村木厚子さんが若草プロジェクトを立ち上げてから、若草プロジェクトは東京都若年被害女性等支援事業を受託し、様々な企業と連携しながら順調に事業を拡大していきました。

また、若草プロジェクトと類似した組織(BONDプロジェクト、ぱっぷす、Colaboなど)とも連携して活動しています。

さらにこれらの団体が満足のいく活動をするに十分な資金を得るための手段にも抜かりはありませんでした。

  • 募金活動
  • 団体同士の寄付活動
  • 国からの補助金確保(そのための法整備) など

村木厚子さんがここまでできたのは、官僚として築き上げた人脈とその中で培われた手腕によるものと言わざるを得ないでしょう。

村木厚子(若草プロジェクト)とColaboの関係

上記で言及したように、村木厚子さんが代表呼びかけ人である若草プロジェクトとColaboは連携して活動しています。

村木厚子さんはColaboの理事などではありませんが、Colabo理事の1人・奥田知志牧師は認定NPO法人抱樸の理事長です。

奥田知志牧師についてはこちらの記事で詳しく紹介しています。

そして村木厚子さんは“認定NPO法人抱樸希望のまちプロジェクト”の顧問を務めており、村木厚子さんと奥田知志牧師はColaboが一般社団法人化(2013年3月1日)する以前からの知り合いであることも判明しています。

つまり、表向きは村木厚子さんとColaboは若草プロジェクトの支援活動において連携しているだけの関係に見えますが、実際にはもっと複雑かつ深い繋がりがある可能性が非常に高いです。

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